ひとまず最後に

岡山から東京へ帰る新幹線の中で、車窓の外の景色を眺めながらでこの半年間の採訪の旅のことを思い返していました。当初は現場探索のみのつもりではじめたもので、まさか制作の根幹を担うものになるとは思いもせず、教授との話し合いや制作の進行で要素が定まって行くうちに取材や調査の拡大の必要性も出てきて人見知りで計画性の乏しい私は、不安要素が日々募っていくばかりでした。ですが、うまくいっていたかはさておいて、終わってみればそれらは経験としてとても色濃く残り、すでに結果よりも十分意味のある活動であったのではないかと今では自負しております。

 

祭りとは本当に様々な魅力ある要素が詰まっていて、とてもすべてをここで語り尽くせないのですが、私としては今回の一連の採訪の中で祭りとは「出会い」の場でもあるということを特に強く実感しました。秋田県花輪ばやしでの沼田さんが「地域の人々同士は祭りのために一同に介しお互いの近況や無事を確かめ合い、遠く離れていた家族や友人同士は再会する日なんだ」とおっしゃっていたことに加え、私のようなよそものがその土地の人々と話し合えたのは、祭りという媒体があったからに他ならないでしょう。民俗学者の中には、多くの祭りは観光資源化が主になっており本来の意味をなしてないと言う人もいますが、私としては伝統を守りたいという心が人々を結束させ、そこに出会いがあれば、はじめた人たちも言うことなしだと思います。

 

また、情報というものには「味わい」が必要なのだとも感じました。私も普段はインターネットや書籍から色々な情報を得ていますが、忘れっぽい性格も災いして消費したら忘れてしまうことがとても多いです。ですが、やはり現地の人から直接聞く話にはそれぞれの声や話し方や眼差しからにじみ出る味わいというものがあり、それを真に受け止めることでその内容はいつまでも記憶に残り続けるように思います。うちの学科が実際に現地に行ってみることを強く押すのも多分そういうことなのかもしれません。

 

さて、これからは本題の卒業制作の制作にとりかかるのでひとまず採訪の旅はここで終わりとなりが、今回のかけがえのない経験から祭りだけではなく、日本という土地の素晴らしさ、その魅力にも改めて気づくことができたので、私はこれからも採訪の旅を続けて行こうと決めました。

その時々、気力があればまた報告します。では。

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12月23日(金)滝宮での取材②

昨夜は駅前のカプセルに泊まり、昼前に出発し滝宮には12時頃着きました。この日は曇りがちではありましたが時折陽射しは入り雨が降る様子もなく、滝宮の地ではじめて雨に打たれない日になりそうです。取材の前はいつもかなり緊張するのですが、聞く内容を反芻しつつ、滝宮神社に向かいます。

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境内に入り、社務所の巫女さんに約束していた取材の旨を伝え、神主の綾川雅三さん(綾川町に住んでいて苗字も綾川さんです)が快く招き入れてくれ、神社の中へ入れてもらいました。中では今日は集金日らしく神宮の関係者の人たちが数名で談笑をしていました。早速、綾川さんに取材を行おうとおもったところ、なんでも今日が祝日なこともあってありがたいことに念仏踊りで踊ってられる方が時間が空いているらしく呼んでもらえることになりました。綾川さんはとても気さくな方でその方が来るまでの時間、お茶やお菓子を出してくれ滝宮神宮の歴史や綾川町に関する話を詳しくおもしろく教えてくれました。

 

20分ほどして呼んでいただいた久保篤志さんという方が到着しました。久保さんは念仏踊りの中でも下司(げんじ)という中央で大きな団扇を持って踊るいわゆる花形の役職をここ2年ほどやってられる方であの激しい動きに反してとても温厚で線の細い方です。インタビューの前半では、下司の役割から苦労話を熱心に教えてくださり、後半では念仏踊りにはじまる芸能論などを私の質問に対して真摯かつ一つ一つ丁寧にお話ししてくれました。話を聞いてると本当に古典芸能が好きで頭のいい方だなとインタビュー中の節々で思わせられるほど知識豊富な方で、こういう方がいると伝統的な踊りも心強いのではないかと思います。私自身も久保さんのような方が日本にいて嬉しいです。

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インタビューは1時間ほどで終わり、その後は綾川さんを含めた念仏踊り談義がはじまり、私は聞いていることしかできませんでしたが現地に赴かなければ聞けないような話ばかりでこれもまたとても参考になりました。というのも念仏踊りに関する書籍や資料はそもそもそれほど多くないのでレコーダーも回していましたが、一つ一つの話をなるべくその場で吸収するよう努めました。

話に花がさく最中ではありましたが東京へ帰るための岡山への最終電車が近づいていた

で私は途中でおいとましました。帰り際もお二人が労いの言葉をかけてくれ、ありがたかったです。卒制が終わって落ち着いたらまた必ず訪れたいと思います。

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私が滝宮に訪れると必ずと言っていいほど晴天に恵まれず大体空は濁っていて帰りの道中も曇り空は続いていましたが、気分は真反対にとても晴れやかでした。

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12月22日(木)滝宮での取材①

秋田県での取材を終え、その日のうちに夜行バスで東京まで戻り、そのまま次は香川県へ滝宮の念仏踊りの再取材に向かいます。夜行バスでいくより割安だった為、今回は飛行機に乗りました。

高松空港に降り立ちそこから高松に到着したのは日の入り前ほどの時間で、今日は移動日だったため駅前のビジネスホテルで明日以降の準備をして過ごすことにしました。

 

翌日朝、高松から琴平電鉄(ことでん)で滝宮駅に向かいます。この琴平電鉄は未だに駅員による切符切りが行われていてとても風情があります。向かう途中の車内は東京の整備された電車にくらべかなりがたがたゆれますがそれもまたいいです。

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滝宮駅に着いたのは11時頃でひとまず最初の目的地であるうどん屋さんに向かいます。普通に観光してるじゃないかというかんじですが、ここ綾川町はうどん県として有名な香川県の中でもさらに讃岐うどんの発祥の地であると言われており、一応これも現地調査の一環ということです。また個人でやっているおいしいうどん屋さんはお昼すぎには店じまいしてしまうところが多く早めにいかないといけないのです。

 私が訪れたうどん屋さんは「松岡」というところで駅から歩いて10分ほどの大通り沿いにあるお店で、かなり素朴な佇まいです。最初開いているのか不安になりました。うどんはシンプルなかけうどんと自家製のてんぷらなどしかありませんでしたがどちらもとてもおいしかったです。

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1日目は撮影日に充てていたので「松岡」を出てからは滝宮の町をひたすら歩きまわることにしました。町中には目立った商業施設やコンビニなどはなく、一軒家と住宅地が広がるいたってのどかな町です。

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夕方ごろ、滝宮神宮を撮影していると雨が降り出してきたので、近くにあった綾川町うどん会館で雨宿りしてから帰ることにしました。うどん会館ではかなりたくさんの種類のうどんや醤油などが売っていてどれも本格派でおいしそうでした。お土産に綾川町で作られている生うどんを買って行きました。あと会館の外には念仏踊りの像が立っていて、この町に根付いていることがうかがえました。

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日が暮れ雨が弱くなってきたところで駅に向かい、高松に帰りました。明日は神宮の方に取材をします。

 

 

12月20日(火)西馬音内での取材

19日夜に東京から夜行バスに乗り、20日の明朝に横手に到着しました。そこから奥羽本線で最寄駅の湯沢駅まで向かい西馬音内までの最初の路線バスを待ちます。秋田県はすでに一面雪で覆われており、特にこの羽後町は県内屈指の豪雪地帯であり、住宅街でも2m以上雪が積もることも珍しくないらしいです。バスに乗り西馬音内に向かう道中の町の家々にはすでに雪囲いがされていました。そんな羽後町のキャッチフレーズは「緑と踊りと雪の町」だそうでまさに言いえて妙だと思います。

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羽後町に着いたのは10時頃で小雨が降っていました。前回来た時はすでに日が暮れていたので日の下でちゃんと町を見回してみるととなんとも風情があります。

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着いてすぐに前回祭りの真っ只中で行けなかった盆踊り記念館に足を運びました。中には盆踊りのミニチュアや端縫いの着物、藍染めの着物などが展示されているほか盆踊りの紹介映像が試聴できるコーナーもあり来てからはしばらくそれを見ていましたが、色々な習わしや、前準備などもあるようでやはり現地での資料は見応えが違います。

資料収集はもちろんですが今回は取材をメインにやって来たので、ある程度館内を見て回った後、従業員の方にこの辺りで盆踊りについてお話が聞ける方がいないか聞いてみると「ながや」というお土産屋さんの佐藤さんという方を紹介してもらいました。昼過ぎに向かうことにし、従業員さんにお礼を言って記念館を後にしました。おもしろかったです。

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次に少し離れたところにある羽後町の民俗資料館に向かいました。かなり立派な佇まいで中の展示もしっかりしていました。西馬音内の盆踊りをはじめとしジジエコババエコ、鹿島流しなどの伝統的な祭礼行事を主に紹介するほか、縄文、弥生時代の土器や器などが多く出土したらしくそれらがたくさん展示されていました。

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資料館を出たのは12時頃で町並みの撮影と昼食を食べるために西の方に向かって歩いてみることにしました。川を渡るとなんでも最近できたらしい道の駅があるらしく、ひとまずそれを目指して歩いていきます。町並みは素朴で軒先のいたるところで防雪対策などの雪の町独自の文化を垣間見ることができ、田畑を覆う雪に反射する雲間から時折現れる日の光はいつもよりまぶしく感じます。

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色々見て回った後しばらくして道の駅に到着しました。中はかなり広々としていて「端縫いの郷」という名前の通り物産コーナーには端縫いの土産物がたくさん売っていて私は座布団を買っていきました(邪魔になるので自宅に送りました)。入り口にはなぜかpepperくんもいました。

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道の駅で昼食をとった後、西馬音内の町中に戻りいざ取材、と思った矢先時折降っていた小雨が本降りになってきてしまい、傘を湯沢駅のロッカーに忘れてきてしまった私はけっこうびしょ濡れになってしまいました。このままで会うわけにもいかずどこかで雨宿りがてら乾くまで待とうと思い、施設を探しているとちょうど盆踊り記念館と併設されていた図書館があったのでそこに入ることにしました。入り口でなるべく水気をきって中に入るとあたたかくてかなりほっとしました。せっかくなので盆踊りに関する資料を収集していこうと思い立ち、本を濡らさないように注意しながら本を探しました。実際、ローカルなお祭りになるほど都内の図書館では資料がなかなか置いていないのでこういう図書館は訪問先では意外と重宝します。

図書館では盆踊りに関する資料がいくつかありましたが中でも興味深かったのはある書籍の盆踊りの語源はインドの古代の言葉からきているのではないかという内容のものでした。なんでも「盆」とはインドのウルラバンナという梵語(ぼんご)を日本人がウラボン(盂蘭盆)といいそれをより簡略化したものだということだそうです。おもしろです。

そのほかにも西馬音内の盆踊りに関する資料もいくつか見つかったので図書員の方に資料をコピーしてもらいました。

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15時すぎ頃になるとすっかり雨も止んでいて、今度こそ取材にと図書館を後にしました。土産物屋「ながや」は記念館、図書館からほど近く、橋場から見るとちょうど正面にみえるところにあります。店内にはいると中には盆踊りや秋田に関する土産物はもちろん他にも子供用のおもちゃやプラモデル、人形なども置いてありました。

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ここの店主さんは佐藤良友さんという西馬音内盆踊りで主に囃子をやっている方で、とても気さくでいかにも秋田のおじさんといった風でした。 突然訪れたにもかかわらず、椅子をだして親身に取材に応えてくださりとてもありがたかったです。

厳密にいうと佐藤さんは西馬音内盆踊りの中でも「北の盆」という団体に属していて「北の盆」は保存会ではできない日本各地での公演や、伝統的な形式を守るために立ち上げられた団体です。盆踊りや町の現状、問題点から雪国ならではの苦労話まで長い時間様々なことを教えていただきました。

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話を聞き終わる頃にはすっかり日も暮れていて、佐藤さんにお礼を言って「ながや」を後に帰りのバス停に向かいました。バスを待っていると近くに自転車をとめていたお兄さんが「そこは寒いから待合い場所の室内に入ったほうがいいよ」と声をかけてくれました。気づきませんでしたがすぐ後ろに待合いスペースがあって、あと15分くらいは待たなければだったのでありがたかったです。

そんなこともあって帰りのバスの中で、前回来た時もそうでしたが、やはり羽後町は人情が生きていていい町だなとしみじみ思いました。

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12月4日(日)新ひだか町での取材

今年、二度目の北海道です。旅費は大丈夫なのかというかんじですが、オフシーズンの航空機は実はびっくりするほど安くて、実家に帰る半分くらいの値段で行けてしまったりします。今回は前回訪れた時に行けなかった民族資料館や記念館の方への取材を行うために訪れました。3日の夜に到着して、ビジネスホテルに泊まるのも割高だったので、今回は駅前の漫画喫茶で寝泊まりしました。

 

翌朝、前回と同じ時間に出発し、高速バスで静内に向かい10時半頃、駅に到着しました。今回はそれほどせわしなく動くこともないので、町を見渡しながらゆっくりと真歌の丘を目指します。

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二度目に訪れた真歌の丘はにぎやかな法要祭の時とはうってかわって閑散としており、かなり広く感じました。人がいないのはもちろんですが、アイヌの衣装文様の賑やかさもあったせいだと思います。腰を下ろして誰もいない広場で改めてまじまじとシャクシャイン像を見るとその荘厳さ、精巧さに気付かされました。この像は彫刻家の竹中敏洋さんという方が制作されたそうで、札幌市内にも作品が数多くあるようです。

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前回行かなかった奥のチャシ跡の方にも行ってみると展望台があり登ってみると静内の町と太平洋が一望でき、北海道らしい雄大な眺めでした。

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その後は当初の目的であった記念館の方に行き、管理人の芦沢さん夫婦のお二方に話を伺いました。芦沢さん夫婦もアイヌ民族の末裔であり、快く色々なことを教えていただきました。それに加え本来12月の間は資料館の方は開けてないらしいのですが、特別に今回中を案内してくださいました。

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資料館と記念館を案内して頂いたあと、私が寒さで震えていたのであつかましくお茶までいただき、さらには帰りのバスで食べてとおにぎりまでにぎってもらってしまいました...。夫の芦沢新一さんの「アイヌには来客はもてなす習わしがあるんだよ」という言葉がとても印象的でした。

 

と、それだけならまだしもその後、奥さんの芦沢めぐみさんに新ひだか町の町中にある新ひだか町博物館にまで車で連れて行ってもらってしまいました。なんでも博物館の方にもアイヌに関する資料が展示されてるとのことです。

博物館には新ひだか町の沿革や観光名所の案内はもちろん、アイヌに関する様々な資料も展示されていました。その中でも特にアイヌ語の話者のおばあさんによるユーカラアイヌ民族に伝わる叙事詩)の試聴のコーナーが特に印象的で、芦沢さんと二人で20分ほど聞き入ってしまいました。

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一通り見て周った後、私の帰りのバスの時間まで待合い場所のようなところでまたいくつか話をうかがわせて頂きました。その時は資料館や記念館を案内してもらっていた時は聞けなかった今も続くアイヌの人々への差別に関する話も話していただき、私としてはアイヌ民族というものに対してより一層理解を深めることができ大変ありがたかったです。最後は駅まで車で送っていただき、握手をして別れました。芦沢さんにはこの1日今日会ったばかりの初対面とは思えないような至れり尽くせりの案内をしてもらい、本当に感謝しかないです。また北海道を訪れた際は会いに来てみようと思います。

お昼に頂いたおにぎりはバスでは食べずにその日の晩御飯としていただきましたがとても美味しかったです。

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11月4日(金)⑥種取祭(沖縄県竹富町)

当日は朝一番にゲストハウスを出て石垣港から竹富島に出発しました。竹富島石垣島から約10分、距離にして6kmという他の離島に比べてかなり近い場所にあります。当日はよく晴れて気温も高く、11月でしたが半袖で過ごすのがちょうどいいくらいでした。さすが沖縄です。ある程度有名な祭事とあって乗客も結構いました。

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竹富島の到着してそこからは観光バスで祭りが行われる島の中心部辺りにある集落まで向かいます。車窓の外を流れる島の風景は緑が生い茂り街頭などもなくいかにも離島といった雰囲気で牛が普通にそこらじゅうで飼われていました。

 

集落に到着したのは9時ごろでした。祭りが始まるのは10時半からでまだ時間に余裕があったのでちょっとした島散策を行いました。迷わないように集落からはあまり離れず近辺を周っているといろいろなところで道をほうきがけしている人がいてこれから祭りがはじまるんだなという予感をさせてくれます。後から知ったのですが御嶽(うたき)とよばれる神を祀る祠のような場所が島々の各所にあってそこを見て回ればよかったなと思いました...。

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種取祭は一般の人の前では芸能の奉納が主に行われます。種取祭芸能の特色は島言葉による島独自の歌・踊り・狂言を多数継承すると共に島外から伝来した芸能を島独自の芸能へと変容させてきたところにあると言われており、私はこれを楽しみに来たと言っても過言ではないです。

10時半になるといよいよ明け方から儀式や奉納を島各地の御嶽で行ってきたユークイの集団が広場に帰ってきてそれを迎えるンカエという芸能がはじまります。種取祭芸能は一つ前に訪れたアイヌの芸能とは打って変わって全体を通して楽器をたくさん使い、ンカエは小さなドラのようなものを叩きながら大勢の人でとても賑やかに行われます。

芸能は庭芸能と舞台芸能に大別され、庭の芸能は行列という意味のゾーラッキと呼ばれ、晴れやかでかつ力強い演目が中心であり神前に村人の活力を奉納するものです。

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庭芸能が終わると次は隣にある舞台で芸能が行われます。配分としては舞台芸能にかける時間の方がかなり長く舞台芸能は午前中から日が暮れるまで行われます。この次々と芸能が行われていくかんじは二ヶ月前に訪れた遠野祭に近いです。 庭の芸能に対し舞台芸能は優美さと格式を重んじた感動的な演目を基本としており長時間の芸能には観客を和ませ笑わせることも必要とされます。

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舞台のすぐ横にある世持御嶽に参加者全員で礼をし、最初の演目はホンジャーというものからはじまります。

種取祭芸能の演目はかなりたくさんあるので全てに言及することはできませんがこのホンジャーは芸能の統括者である重要な立場であると同時に、実は別の面でも特筆したい事があります。というのも私が読んだある書籍によるとこのホンジャーの崇め奉る所作はアイヌの崇め奉る所作と同一のものが見られるらしく、それは福、富を招き入れる「押す・拝む・こねる」の動作であるとのことです。両極端の地で共通するこのことには個人的にとても興味深いです。

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もう一つこの種取祭、しいては八重山諸島にかかせない演目はホンジャーの次に行われたミルクというものです。ミルクは沖縄の各地でニライカナイ信仰と習合して海の彼方から豊作を運んでくる五穀豊穣の神とされており豊年祭にとって最も重要な神です。お面をかぶっている人はこの祭においては神として一番格の高い人として扱われるらしいです。周りの子供は子供は神の使いだという信仰にのっとったものだと思われます(これは結構各地で言い伝えられていることです)。

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その後の演目をしばらく見てテントで売っていたお弁当(島にんにくが入っていておいしかったです)を食べた後、気分転換に海の方に行ってみました。沖縄の離島には中学生くらいの時小浜島に観光で訪れたぶりでしたが、やはり海は抜群に綺麗で一時11月だということを忘れるほどの南国感を満喫しました。集落から東の方行ったところにある西桟橋というところで普通に観光している若者やドローンを飛ばしている外国人なんかもいました。

それからはまた会場に戻りました。

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日が暮れ長時間の祭りも終盤に差し掛かろうというのにそれに逆行するように芸能は賑やかで激しいものが続き人々とそして御嶽の神を力づけ楽しませてくれました。伝統的な芸能のほかにおじさんバンドの演奏もあったりして笑いました。

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1日中続いた芸能も18時半頃ついに終わりました。と思いきやこの後、一般人も参加できるユークイが竹富島の家々で行われます。私も参加したかったのですがこのユークイに参加すると夜通し抜けることができないとのことで今回は周りからそれを見物することにしました。ユークイに参加する人ははちまきとユークイ歌の歌詞を渡され一緒に歌い、踊り、家々を回ります。ユークイに参加するともっと祭を肌で感じることができそうなので次回は来る時は私も参加してみようと思います。

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普段は18時頃で船は終わるらしいのですが、この日は祭日ということで臨時便が遅くに出ており、それまでユークイを見てから集落を後にしました。

ユークイがはじまる頃には帰りのバスはとっくに終わっており、帰りは徒歩で港まで向かったのですが、当然街灯などはなく星の明かりだけの真っ暗な道で、道中で光る牛の目は若干怖かったです..。それでいて夜はうってかわって寒かったです。

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この日は朝から晩まで本当に祭三昧で帰る頃にはどっぷり疲れましたが、BEGINの島唄などのポップソングなどでしか知らなかった沖縄の音楽、芸能を直に感じることができとても満足でした。

 

 

 

 

11月3日(木)石垣島の探訪

11月2日、芸術祭の最終日が終わった翌日、大阪から沖縄へ向かうため地元の京都へ帰りました。次の日、昼頃に関西空港から飛行機に乗り沖縄の那覇空港に夕方ごろ到着。ここ数日かなりせわしなかったのでこの日は特にどこにもいかずビジネスホテルで明日の準備をして過ごしました。夕飯に近場の定食屋で食べたご飯が美味しかったです。

 

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祭事日は4日なのにかなり早めに現地入りしたのは単純にこの日がほかの日に比べて飛行機が格段に安かったからです。当日の前後がかなり高かったのでこの豊年祭になので次の日の3日は移動とちょっとした現地探訪兼観光に充てました。石垣島に着いたのは10時すぎくらいで、そのまま予約していたゲストハウスに向かい荷物を置いてすぐに町に出かけました。石垣島の町はオフシーズンの平日ともあってやはりのどかなのんびりした雰囲気で商店街のような場所でもあまり賑わいはありませんでした。潮風にあてられ侵食された建物、赤瓦の屋根、まさしく沖縄の町並みといった雰囲気です。個人的には以外とコンビニやチェーンの店も多いなと思いました。

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結構色々なところを歩き回りましたがやはり海が身近にあることもあって子供がテトラポットを遊具代わりにして遊んでいたり、近々お祭りがあるのか港で踊りの練習をしている人たちがいました。そのほかに町のいたるところにガジュマルの樹が生えていたりとまさに諸島の町というか本土とはかなり違う町並みにやはり独自の文化体系を形成しているなと感じました。

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昼飯は八重山諸島ソウルフードともいえる八重山そばをたべました。麺はそばではないのですが味はそばに近く島唐辛子をかけても合いました。値段も安くて美味しかったです。

 

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この日は町歩きをして終わりました。次の日はいよいよ竹富島に向かいます。